はやしひろおのホームページ/散文系 スメタナの「高い城」に聴く伝統と革新




スメタナの「高い城」に聴く伝統と革新

本場チェコ・フィルの演奏は正統的なのか?


19世紀末のナショナリズム台頭の時代に書かれた、チェコへの愛情の塊のようなスメタナ作曲「わが祖国」、現在でも「プラハの春」音楽祭では必ず演奏されているけど、この曲ほど「やっぱ本場の演奏でなくては」と思われている曲もないのでは。つまり伝統に培われたチェコ・フィルの演奏でと。

今回(2001.12.8)、「わが祖国」の第1曲「高い城(ヴィシェフラト)」を弾かせてもらえることになったので、手元にあったヴァーツラフ・ノイマン指揮チェコ・フィルのCD(1982年11月15日、東京文化会館でのライブ)を参考のため何度かプレーヤーにかけていた。同じ時期にロジャー・ノリントン初来日の演奏会を聴きかなりの衝撃を受け、何か彼のCDを買おうかなと探していたところ発見したのが、古楽器使用のロンドン・クラシカル・プレーヤーズを指揮したスメタナの「わが祖国」。イギリス人の指揮者がロンドンのオーケストラ、しかも古楽器のオーケストラを振ったチェコの民族音楽の録音。存在自体が革新的。いたく興味を惹かれ、さっそく購入。

この「高い城」を聴いて感じたのは、弦楽器のシンプルな音色もそうだけど、一番はテンポの変え方。この曲ではあちこちにPiu AllegroとかMeno mossoとか、要はテンポを変える指示があるんだけど、ノリントンは忠実すぎるくらいにこの指示に従い、スパッとデジタル的にテンポを変化させる。その他の部分では(少なくとも体感では)テンポの変化はない。淡々と進んでいく中にオッと思う瞬間が何ヶ所かある、といった感じ。

一方ノイマン指揮チェコ・フィルの演奏を聴き直してみると、テンポをパッと変えるのではなく連続的に変化させて、曲全体で1つの大きな流れを作っている印象。220小節目を過ぎたあたり(時間にして9分あたり)から徐々にテンポを落とし、弦のトレモロとホルンを強調して大きな効果をあげ、全体のクライマックスを作っているが、実は楽譜にはそんなことは書いてない!ここが一番大きな違いだろうか。ノリントンは楽譜の通り、何もせずあっけらかんと進んでいく。

もう1点大きな違いと思われるのが音量。CDからはわかりにくいけれども、実演で聴いたチェコ・フィルはpでも楽器をしっかりならしており、強弱の幅はわりと少なめ。それに対しノリントンは作曲当時の現代より小さい編成のオーケストラを使っており、必要な時にはティンパニをたたみかけるのでコントラストはかなり大きい。

チェコ・フィルが先日来日した折の演奏会プログラムによると、団員たちは「私たちの義務は伝統を守り抜くこと」だと口をそろえて言うそうで、リハーサルの合間には先輩音楽家が若手にフレーズの一つ一つを懇切丁寧に指導していく、という光景も見られるそうだ。西洋音楽の歴史のない日本人からするとうらやましい限りの話だけど、伝統とは常にその時々の新しいものを取り入れながら受け継がれていくもので、アーノンクールの言うように「1段あってバタークリーム、1段あってまたバタークリーム、そして最初は薄っぺらかったケーキが最後には象が食べるようなケーキになってしまう」なんてことにもなりかねない。ノリントンの主張はこのページに書かれているけれども、明らかに伝統を見直しスメタナの考えに立ち返ろうとしている。そういう意味ではノリントンの方が正統的な演奏と言えるかもしれない。

しかし、テンポの変化や強弱などといった方法論が音楽のすべてではありません。曲に対する共感、またはスメタナが描こうとした祖国に対する愛情、これらをどれだけ強く感じ取ったかが一番重要な問題ではないかと。



(2001.11.27)