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決着をつける必要があるのか?
高校野球なんて全然興味がないんだけど、今回だけはしかも決勝戦だけは、何となく親につられてテレビで、試合終了間際はラジオで見たり聞いたりしていた。日曜日の1試合目の方。早実のピッチャーが延長15回で147kmの球を投げていたのには本当に感服した。ペース配分を考えて余力を考えつつ投げていた証明だろうと思う。
そして翌日に再試合。こちらは初めから、全く見る気が起こらなかった。多くの人が思っただろうけど、再試合をする必要があるのか?両チーム優勝でいいじゃない。そうまでして決着をつける必要があるのか?
立花龍司氏という有名なコンディショニングコーチの人は、その著書の中で高校野球の弊害についてさかんに述べている。若いうちに肩や肘を酷使してしまうことで、結果的に選手としての寿命が縮まってしまう。立花氏は小学生や中学生の試合では、例えば4回とか回数を決めて、または40球とか50球とか球数を決めて、それ以上はどれだけピッチャーの調子が良くても交代させる。後続のピッチャーが打ち込まれて試合に負けたり、「うちの子がそのまま投げていれば勝てたのに」と親に苦情を言われても、試合の勝ち負けはその時だけのこと、それよりも若い時のたったひと時に無理をさせてその後の野球人生を棒に振ってしまう方がはるかに残念なこと。その点、高校野球は選手に無理を強要させているわけで、今回の引き分け再試合など選手の将来を考えたら愚の骨頂、興行収入しか考えていない大人の身勝手な論理としか思えない。
昔はプロ野球でも連投はよくあったわけだけど、たまたま生まれつき身体が丈夫な人ならいいけど、そういう人を基準に根性論を語られたらたまらない。権藤だって数年でダメになってしまったわけだし、荒木大輔だってプロに入って怪我で苦労したのは若い頃からの無理がたたったんだろうし、地元の話になっちゃうけど中京の野中や亨栄の近藤(あの鮮烈なデビュー登板が懐かしい)もプロに入ってから大成しなかった。時代が下るときちんとした身体のメンテナンスを指導する監督も出てきたようで、松坂大輔を擁していた横浜高校の監督さんは準決勝で松坂を休ませるという離れ業(決勝はノーヒットノーランでしたね)まで成し遂げていた。しかし今回は実質的に両チームとも炎天下の中でとんでもない連投を強いたわけで、これが今後どういう影響を及ぼすのか、注視していきたいと思う。
それよりも大きな弊害は、身体面よりも精神面かもしれない。マスコミがヒーロー扱いですぐにちやほやする。選手本人たちはとても賢く謙虚そうな人物なのでこれで勘違いしてしまうようなことはないだろうけど、周りのいい年した大人が「感動をありがとう」だなんて、高校生にもらわないと感動できないなんて普段よほど無感動な生活を送っているのだと恥ずかしく思って欲しいものだ。
なんちゃってバロックチェロのデビューとクレンゲルetc.
18日のチェロ二重奏は、マルチェロのソナタ、バッハのブーレ、クレンゲルの組曲からアリオーソとフゲッタ、そしてアンコール2曲。マルチェロのソナタはチェロを弾く人の間では結構有名な曲だと思うんだけど、僕は弾くのも聴くのも初めて。通奏低音のパートを受け持ったんだけど、スチール弦を張ったモダン仕様の楽器にバロック弓という、バロック専門の人には邪道だと言われかねない組み合わせだけど、事前のリハーサルでモダン弓と両方弾いてみて、バロック弓で弾いた方が出したい音が出しやすかったので。H岡先生も「その方がバロックの雰囲気が出ている」と太鼓判。弓が違うだけでもそれなりに音が違ってくるというのは新鮮な発見だった。
2曲目のバッハの無伴奏チェロ組曲第3番のブーレは、なんと私のソロ。人前で一人でバッハを弾くのはかなり久しぶりだな。今回は冗長なプレトークのあと、ガット弦を張ったなんちゃってバロック仕様のチェロとD.Badiarov氏制作のバロック弓がうなりをあげ、アンナ・マグダレーナ・バッハの筆写譜を参考にしたアーティキュレーションが炸裂。なんちゃってバロックチェロはこれが記念すべきデビューコンサートであった。
メインはクレンゲルの組曲からアリオーソとフゲッタ。重音の多い難曲だった。有名なチェリストの作曲というだけあって、チェロの演奏技術の可能性を追求してはいるが、曲的にはいまいちの感は拭い切れず。アリオーソは繰り返しを省略して間をもたせ、フゲッタは僕のトークと同じくらいの冗長さ。どれも悪い曲ではないんだけどどうも単一的というか広がりがないんだよね、もちろん演奏のせいかもしれないけど。まぁしかし、こういう知られざる曲というのは自分たちで楽譜から音にしないといつまでたっても聴くことができないし、また一つ新しい曲を知ることができたのはとても楽しい経験だったかなと。
アンコールは、聴き手の予想をはるかに上回って疾走するウェブスターのスケルツォで固定観念を粉々に打ち砕き、パーセルのリゴードンでどっしりと落ち着いて幕を閉じる。自分で弾いててなにげに楽しかった。聴いてる方もよく知っている曲だからか、受けもよかったようで何より。
それにしてもチェロは普通に1本でも持ち運びが不便なのに、チェロ2本に弓3本持ってって、どんどん自分で自分の人生を面倒くさくしている感あり。演奏以前に移動にも苦労していることに違和感を感じる今日この頃。
オシム語録@2-0イエメン
今日の演奏の話はまた後日ゆっくりと、ということにして、2日前のオシムジャパンvsイエメン、2-0で勝利ということで、引いた相手にとりあえずは結果を出したので文句はないでしょう。オシムは随分不満げだったけど、前任者の時と比べて圧倒的に動くようになって見ていてワクワクするし、点が入りそうな予感もある。今後も期待したいですね。
そして試合後の会見で面白かったのはこれ。
――エレガントと効率性は両立しないということだが、エレガントなプレーをする日本の選手についてはどう考えるか?意味は分かる。あまりにもエレガントなプレーヤーは難しいかもしれない。普通に美しいプレーヤーはどうか? 格好いいかもしれない。美しいプレーをして、その結果はどうなるか? その結果を考慮したい。美のために死を選ぶという選択はある。だが、死んだ者はサッカーができない。美しさを追求して死ぬのは自由だが、そうなるともうサッカーではない。現代サッカーのトレンドはそうではない。今はどんなに美しいプレーをしたかではなく、何勝したか、それが求められる。残念ながら。
結果が求められる人は気の毒だ。これが音楽なら、コンクールにでも出ない限り、美しさを追求すればいいわけで勝ち負けはないから気楽なもの。しかし音楽では美しさとはイコール結果か。結果を求めることには変わりない。そして結果を求めるための手段としては、一般には美しさとは対極にあるとされるテクニック。すなわち美しさを求めるなら、退屈なテクニックの練習こそが必然。美しさを求めるためにはテクニックを求めないといけないのだが、だんだんテクニックを求めることだけに意識が行ってしまって、当初の美しさを求めることは忘れてしまう。そしてテクニックだけ達者で美しくない演奏をする人もできてしまう。でもテクニック自体が美しい人もいる。何がよくて何が悪いのか、なかなか難しい。
お伊勢参り
この暑い中を、生涯初となるお伊勢参りに行ってきた。伊勢市駅に降り立った途端にくみ取り式の芳しい匂いの歓迎を受ける。都会育ちにはそれなりのインパクト。まぁしかし一応駅前だけあって大きなデパートもあり、それっぽいバスターミナル、タクシー乗り場も装備されていた。
伊勢神宮の内宮まではタクシーで移動(JRの伊勢路フリーきっぷが割安で便利)したんだけど、行きも帰りもよくしゃべるタクシーの運ちゃんたち。特に帰りの運ちゃんには貴重な伊勢市情報を色々と。なんと前市長は自殺したとか(むしろ知らなかった自分が情けない)、駅前の空き地は利用の予定がないとか、一応駅前だなぁと思わせた大きなデパートには今は中に何も入ってないとか。あれは廃墟かね。ということは駅前にはそれっぽいだけのバスターミナルとタクシー乗り場しかないことになる。当然駅周辺の商店街も人が少なくなっていくし。市の中心街がそれで大丈夫なのか。
市長自殺の話はネットで調べると出てきますね。竹中平蔵や片山さつきが応援に駆けつけた(一市長選でそこまでするか)自民党候補を接戦で破った民主党推薦の市長だったんだけど、どうもその後無言電話とか嫌がらせがあったり駅前再開発の話がうまく進まなかったりでそんな結果になってしまったよう。悲劇的。
しかしこの車社会で郊外にジャスコが移ってしまったり伊勢神宮へも車で来る人が大勢(駐車場に入る車ですごい渋滞でした)で、あの駅前はどうなってしまうのだろうか。自分で実際に行ってみて、電車&タクシーというのはお伊勢参りには最善の方法だと思ったのだが。駐車場に入りきれないために道に並ばざるをえず駐車違反状態になっている自家用車とそれに巻き込まれるバスを尻目に、中央のゼブラゾーンを突っ切って颯爽と内宮入口まで乗り付けるタクシーの爽快感。それを違反と言うなかれ、片側一車線しかない道路をすべてふさいでしまっている自家用車たちが諸悪の根源なのだから。
これからの10年も
今頃になって昭和天皇側近のメモが出てきたり、今頃になって4月に安倍晋三が靖国神社に参拝していたことが報道されたりしてるけど、僕も今頃になって月曜日のTVタックルのことを書こうと思う。もうだいぶ忘れてしまっているけど、靖国神社の話。型どおりの議論が進んでいる中でハマコーがほえる!さながら天皇の戦争責任を追及しているかのような。確かに開戦を決めたのは東条を始めとするいわゆるA級戦犯かもしれない(開戦を決めたのはそうなるように仕向けたアメリカではないかという話もチラリと)が、当時の大日本帝国憲法においては軍事の最終決定権は天皇にあり、天皇が了承したからには最終責任も天皇にあるのではという話。そして日本のため、天皇のために戦場で尊い命を落とした人達に手を合わせるのは当然のことではないのか。先の大戦に思いを馳せて目に涙を浮かべつつ持論を展開するハマコーの迫力に、いつもはバカ騒ぎの面々も静まり返ってしまい、見ているこちらも引き込まれてしまった。たまにこういう迫真の演説が聞けるのがこの番組の嫌いになれないところ。ハマコー素晴らしい。見直した。開戦前夜の日本の緊迫した状況をかんがみると、今の靖国参拝の是非しかも他国の顔色をうかがいつつ、なんて議論は全然本質と離れたバカらしい空虚なものに思える。
じゃあ本質は何なのか?というのは難しいところ。結局は個人の心の問題で、参拝しようがしまいがお祈りの気持ちを持っていればいいんだけど、参拝したしないの表面上の行動だけで周りは見るわけで。結局その人の心の内なんて誰もわからない。天皇や皇族なんて自分の心のうちを見せない最たるもので、ちょっとした発言が政治利用されてしまうし、番組で言ってたけど昔防衛庁長官に就任した人が「国防は大事だからがんばって」と天皇に激励されて、うれしくてそれを記者会見で言ったら、社会党とかから「天皇の政治利用だ」と批判されて結局すぐ辞めることになってしまったとか、そんなことがあると天皇さんも何もしゃべれなくなってしまう。それだけに、僕なんかはいつも一家揃ってニコニコと手を振っている姿を見て「家で親子喧嘩とかしないのかな」と思っていたけど、今回のメモは人間臭い天皇を知ることができて、人間天皇を実感することができてちょっと安心した。
ちょっと話が外れてきたところで、最近読んだ堺屋太一の「大変な時代」という、右肩上がりの時代は終わってこれからは成熟社会、コストをかけて拡大志向でいくのではなくてローコスト化を目指すべきだという主張の本で、田中角栄が作った上越新幹線で角栄本人に「むりやり新幹線をお作りになって、大きな赤字が出て長年に渡って国民の負担になりますよ」と言ったら、「ちゃうちゃう、新潟へ新幹線を作れと言ったが、超高速新幹線を作れとは言っていない、あれが180kmの新幹線なら採算が合ったんじゃないか」と答えたという話とか、普通だと技術が進歩するとコストも下がって物の値段も安くなるのに、なぜか医療費は高くなるばかりで、医療の世界ではコスト削減の考え方はまるでない、といったような興味深い話が続いてかなり面白い本だったんだけど、その中から。
経費削減の話を持ち出すと必ずと言っていいほど「社員の士気が下がる」という反論が出るが、士気が下がると拡大意欲が低下する。しかし今や右肩上がりの時代ではないので、量よりも質、売上高よりも利益率が追求されるとすれば、やたらとやる気を出して事業を広げることは、時として危険であり、ローコスト化のためにはやる気を抑えることも必要である。昭和10年代に陸軍軍人にやる気がなければ太平洋戦争の悲劇は起こらなかった。中央の不拡大方針に従わず戦線を拡大させ、「軍のためを思って働いた者を罰すれば全軍の士気が低下する」として命令に反して戦線を広げた軍人達が粛清されずにむしろ出世し、決定的な失敗をするまでそれが続いてしまった。
うーむ、確かに。
堺屋の言うことに間違いないような気がする。
いいぞ、太一!
やる気があってはいけない。僕の今までの人生がすべて肯定された瞬間である。
こんな感じでこれからの10年も続いていくので、よろしくお付き合いのほどを。
